(ダースレイダーさん、以下「ダース」)最後のシーンのホロコーストのサバイバー(生存者)、プリーモ・レーヴィの“それは起きた” “また起きるかもしれない。それこそを伝えるべきだ”という言葉。あれで一気に映画の時代が今にそのままつながりますよね。今の話だっていうことにそのまま直結するんですけども、僕は今のパレスチナの状況をどうしても想像せざるを得ず、そして、実はパレスチナの状況っていうのを、今に始まったことではないんですけども、特に9.11以降のハリウッド映画等々で描かれるテロリストの犯人像みたいなものに中東の人があてがわれるっていうことがずっと続いてるんですよね。これは物語、ストーリーだからって言ってるけど何か大きなテロ事件が起こった時に、それが中東のテロリストがやっているっていうドラマだったり、映画作品っていうのがたくさん作られていて、それを見て、そういうもんだ、テロリストが起こした、犯人はこの人ですっていう映像のイメージっていうものを、実はハリウッド映画とかを見ている人は自然に刷り込まれている。その前提の土壌があった時に、今イスラエルが主張しているようなことがそのまま機能してしまう。
これって映画の中でケッベルスがやっていたことが、実はいわゆるエンタメ・娯楽のマーケットでずっと続いていて、それがそういう意図がないとか、これはお話として作っているんだとか、別にキャラの話だからということは言えると思うんですけども、結果としては、このゲッベルスが編み出した映像イメージとか映画を使って人々にあるイメージを持たせるということは、当たり前のように、それを受けているということの果てに今パレスチナで起こっていることも同時に考えられるなと思いましたね。
(プチ鹿島さん、以下「鹿島」)僕は最初このゲッベルス、存在は当然皆さんも知ってたと思うし、僕も知ってたんですけど 、一方でこのデマとかプロパガンダが飛び交うこのSNS空間の今、正直観る前は、なんか下手すればちょっと凡庸な感じになってしまうのかなっていう思いもあったんですよ。
めちゃくちゃわかりやすいテーマじゃないですか。逆にそういう感じで見たんですけど、観終わって監督のコメントとかも見ると、なるほどなぁと思ったのは、監督が今まで僕らが見ていたナチスのあの映像も実はそれはナチスドイツであり、ゲッベルスが、これをどうぞ見てくださいっていうものであって、その世界観の映像を見せられているんですよね。
(ダース)NHKの番組とかで歴史ドキュメントとして見て、この時代にはナチスが台頭してという感じでね。
(鹿島)かなりリサーチもして、物語なんだけど途中で史実のフィルム入ってくるじゃないですか。これは僕の解釈ですけど、そうは言ってもこの映画もちょっと警戒してみてくれよっていうメッセージも見えたので、僕は結構そういう人が好きなんですよね。
(ダース)実際、ゲッベルス主役の俳優が似てないっていう指摘をする人が多いんですけども。
(鹿島)映画評にもありましたよ、いくつか。
(ダース)それが実は大事で、あまりにも似すぎているとその映画が持っているゲッベルスが作った映画の効果がそのまま再生産されるっていうのを、違う顔の人が同じ役で出てるっていうノイズみたいなもので「あ、そうかこっちは作ってあるものだ」「こっちは本当なんだ」っていうのを見てる人が気づいて、実は映像を見てる時に、この見せられてるものはなんなんだっていうことはやっぱり見る側が気づかないとダメっていうのがテーマなので。
(鹿島)だから鍵括弧「ナチスの物語」に乗っかっちゃう可能性すらあるわけですよね。
描き方によってはね。
(ダース)やっぱり内幕を今回描くというのと長期に渡ってのナチスドイツの内部を見せるときに、例えば子供に会いに行って、子供をあやすとか、そうした人間的な括弧付きの振る舞いを描くことの効果というのは何なのかということをやっぱり監督は考えていて。
(鹿島)色々リサーチもして、見たままじゃないと思う。
ただ一方で、そういうギャップを見せるって大事ですよね。この人は実はこういうことやってるけど、普段はこういう振る舞いをしてるんだ。僕なんかやっぱり新聞の政治面とか意外と好きなのは、こういう振る舞いみたいなのを、人間臭さも含めて、そこから見えるものってあるじゃないですか。政策からだけでは絶対見えない。
(ダース)そうそうそう。あとやってる政策がひどいとか、とんでもない野郎だって思っていた人が、人間的な振る舞いをしているときは、どっちを評価するかとか、0か100かで考えて、悪い奴だから、悪いことしてて、普段からすごい悪い奴なんだろうと思ってたら、そうじゃない面を見せられた瞬間にコロッと実はいい人だったんだとか。
(鹿島)昔からありましたよね。ヒトラーは動物を愛す一面もあるみたいな。
でもそんなの誰だってそうですし、そこを紹介するというのは何かしらその人の意図があるし、だから多分監督もインタビューでおっしゃったのかもしれないですけど、この情報は誰がどういう目的で、誰が言ってるのかというのは重要だって。今それこそ80年前に比べてまさにそれが問われているわけで。
僕なんかそこを楽したいから、これは朝日新聞や読売が言ってる、僕らの代わりに事実確認をしてくれるんだなって。そこを丸投げしているので、ある意味ね。
(ダース)それがこの映画の中ではその朝日、読売、日経が言ってる違いが、実はそこも含めてナチストイツが完全に把握して、報道には何を報道させろって。実はそれぞれの報道機関が別のキャラでいろんなことを言っている状況すらもコントロールしている。
低俗な週刊誌にはこういったニュースを出させろ。映画の娯楽作品ではこういうものを見せろ、ということをコントロールされて、見せられる側が、それをいろんな人がこんなこと言ってるっていうのが実は同じテーマをずっと繰り返し見せられているっていうことによってどういう方向に進んで行くのか。いろんな見方があって産経新聞こんなこと言ってるけど朝日こんなこと言ってるというのが保たれていることがすごい大事ですよね。
(鹿島)それで言うと今なんかネット記事の刺激的な見出しとかちょっと似てますよね。
どうせそういうの好きでしょみたいな感じでかなり煽ってくるじゃないですか。
(ダース)ネット記事の見出し問題ってやっぱり ゲッベルス的な人が考えている、釣って、そして世論を作れ、みたいなのをもう本当に端的にやっているわけですよね。それをしかも報道機関が率先してもやっちゃってるっていうところはかなり危険ですよね。
(鹿島)この映画の物語の部分がなるほどなぁと思うのは、そういうことをしている人たちが、すごい小物感というのもちゃんと描いていて、こういう人がやってるんですよ、だから、もっと言えば自分が下世話で小物だからこそ人々が何を求めているか、すごくわかっていたのかなっていうのも映画中考えました。
(ダース)食事のシーンはすごく印象的で、基本的にナチスの閣僚はそれぞれポジション争いをして、誰が隣に座るのかということこそが大事なんだけど、そのために私はこれをやりますっていうのが実はとんでもなく、残虐なことをやって。
結局欲しかったのは隣の椅子ですみたいな話なわけじゃないですか。
お互いのことをけなし合って、ポジション争いをしていく帰結が何だったのかっていうことが後半実際の映像がどんどん入ってくることによって、食事シーンの滑稽さとその結果の残虐さのギャップがギョッとしますよね。
(鹿島)意外と事実はそういうものだったりするのかな。個人の思惑が、例えば政策を変更してみたりとか、ちょっと強めの政策転換してみようとか。意外とそういうのって結びついてると思うんですよね。だから僕は本当に政策も大事だけど、その政治家の俗な部分も見るべきだと思っていて、そこは間違ってはいなかったのかな。政策だけ重視すると、 人間性なんかどうでもいいじゃないかみたいになるとそれは危ないと思うんですよね。だけど人間性だけにこだわると、政策は放って政局だけの話に夢中になっちゃって。
だからやっぱり僕は、どっちもよく見るっていうのが、多分どっちもよく見ろよっていうのは監督もメッセージの一つにあると思う。いろんな情報、これ誰が言ってるのかとか。
(ダース)いろんな情報とか、どっちもっていうサイドを取らせないようにするっていうのが逆に権力側が、特にそのナチス側がやろうとしている。そのどっち側の目線っていうのは嘘の報道と真実のナチスの姿みたいな風に分けて、海外の報道は全部出鱈目で嘘だ、本当のドイツの報道っていうのはこれだみたいな。そういう風に権力がすることによって何ができるかという、鹿島さんのような見方をする人を減らすっていうのが大事で、あちこち行って、こういう見方もあるんだ、こういう人なんだってことをみんなにやられてしまうと困る。
(ダース)本当に、この映画を今見る価値っていうのは今まで以上に出てきてしまって、それは本当に幸か不幸かというと実は不幸なことでもあると思うんですけれども、でもこの事がかつてあったことではもはやないって感じられる、あるいはそう感じること自体がすごく大事だと思うので、お知り合いとか、映画でこういうこと言ってたよって多くの人が知ることで今後いろんな映像とかに対処する能力が見つくかなと思いますね。
(鹿島)ぜひコナンと一緒に見ていただければ。映画館に行くっていいことだと思います。